大阪人権博物館の朝治武館長は京都新聞で「日本に侵略された側に思いをはせると(記事では大東亜戦争の事を指してゐる)明確に間違いだった」・・と言ひ切ってゐるが、朝治館長が主張する「日本が侵略戦争を行った」とする、歴史学で通用する第一次史料の提示を要請した。

また新たに、金沢市が法律や条例や規則に200%違反し法的根拠なく、単に韓国民団や不逞韓国人に忖度して違法に韓国人テロリストの尹奉吉碑の建立許可を承認してました。

西村齊は、金沢市に対して自主的な撤去等の改善に向けての行動を要請しましたが、改善要請を拒否したので行政訴訟に移行します。

よって、今回は本人訴訟ではなく徳永弁護士を代理人として闘ひますので、弁護士費用などの訴訟費用の関係で訴訟費用が本人訴訟より高額になりますので御支援の程、宜しくお願ひします。

(※上記訴訟の支援先口座は西村齊宛ではなく下記に記載してゐる「国士を支える会」宛です)

「国士を支える会」  

《郵便局からの振込の場合》

記号   14150
番号   82207731
名前   コクシヲササエルカイ

《銀行・信用金庫等からの振込の場合》

銀行名      ゆうちょ銀行
金融機関コ-ド   9900
店番       418
預金項目     普通預金
店名       四一八店(よんいちはち店)
口座番号     8220773
名前       コクシヲササエルカイ

☯本文

公開質問状

令和4年7月27日

大阪人権博物館 朝治武館長殿

質問者 やまと新聞社 西村齊

京都市右京区山ノ内御堂殿町7-1-110

電話 09032704447

添付した7月26日京都新聞夕刊記事にて朝治武館長は「日本に侵略された側に思いをはせると、(記事では朝治館長は大東亜戦争の事を指してゐる)明確に間違いだった」・・と述べてゐるが、朝治館長が主張する「日本が侵略戦争を行った」とする、歴史学で通用する第一次史料を提示下さい。

必ず令和4年8月8日までに、下記のメルアド宛にご提示下さい。

回答先 Japanese.wolf@hotmail.co.jp

◉一応、此方が保持してゐる本件に関する一次史料の簡単な要諦を示します。

昭和20年の「大東亜戦争」の敗戦以後、6年余り日本を支配、統治し、明治・大正・昭和(戦前)の日本を「悪者国家」とし、あの戦争は日本の侵略戦争だったと決めつけた『米国占領軍総司令官・マッカーサー元帥』の昭和26年5月3日、米国上院軍事・外交合同委員会での証言では、一変して真実を述べてゐる。

以下、マッカーサーの証言

我々は日本を包囲しました。日本は8千万人といふ膨大な人口を抱へ、4つ島にひしめいてゐました。その半分が農業人口で、半分が工業生産に従事してゐました。日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまで接してゐた何れにも劣らぬ優秀なものです。

日本の労働者は、人間は怠けてゐる時よりも、働き、生産してゐるときの方が幸福なのだといふ事、つまり労働の尊厳を持ってゐました。これほど巨大な労働力を持ってゐるといふ事は、彼らには何か働く材料が必要だといふ事を意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有してゐました。

しかし、彼らは手を加へるべき原料を得る事が出来ませんでした。日本は絹産業以外には、固有の産物は殆ど何もないのです。綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、スズがない、ゴムがない、その他実に多くの原料が欠如してゐた。

そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在してゐたのです。もし、これらの原料の供給を断ち切られたら、日本では1千万から1200万人の失業者が発生し、亡国と化するであらう事を日本政府・軍部は恐れてゐました。したがって日本が戦争を始めた目的は、大部分が安全保障の為だったのです。

以上がマッカーサーの証言です。

◉包囲とは、ABCD包囲網のこと。Aはアメリカ、Bはブリテイン英国、Cはチャイナ、Dはダッチ=オランダの頭文字。米国は日露戦争後から日本人への人種差別を強化、昭和14年以後、鉄・クズ鉄など対日禁輸を強め、つひに昭和16年7月に日本の在米金融資産凍結、8月には決定的な「石油」の対日全面禁輸に踏み切った。これは米国の日本への宣戦布告に相当する。

日本軍は開戦直後の昭和17年に資源を求めて南下したが、略奪・収奪の為ではなかった。フィリピンから米国を、インドシナ半島から仏国を、インドネシアからオランダを、シンガポール・マレー半島から英国を撤退させ、欧米の植民地支配から解放し各民族の独立の道を開いた。

昭和18年、ビルマのバー・モウ総理大臣、タイのワンワイタヤコーン殿下(首相代理)、フィリピンのホセ・ラウレル大統領、中華民国の汪兆銘行政院長、満州国の張景国総理大臣、インドの自由インド仮政府・チャンドラ・ボース首班らの首脳会議「大東亜会議」(日本の東条英機首相の主催)で、「人種差別撤廃」「互恵精神でアジアの共存共栄」を宣言した。

インドネシアの独立の闘士・スカルノとハッタはまだ独立してゐないため、正式参加出来なかったが、会議直後に来日し昭和天皇より皇居に招かれた。東南アジアやインドは「日本が侵略した」とは言ってゐない。反対に「欧米を追放してくれて日本に感謝する」と言ってゐる。アジアから有色人種の日本によって、追ひ出された白人の欧米が「侵略」と決めつけたのである。

安全保障とは「自衛」といふ意味。自衛戦争は現在でも国際法で認められてゐる。マッカーサーは戦後6年を経て、それまでの主張を180度逆転し、東京裁判での東条英機元首相の日本は「自衛の為に戦った」「あの戦争は米国が仕掛けた」といふ『宣誓供述』を認めたのである。